2008年04月18日


【YouTube】Video
Buster Chapter4 Part 2 The Latter Years 1978-1982

【ユーチューブ】ビデオ
第4章・パート2 バスター その後 1978-1982

バスタードキュメンタリー 第4章 パート2
バスターその後 1978-1980(パート2)

聞き手:ジョン・カークマン
語り手:ロブ・フェンナ、ピート・リー


【本ビデオ要旨】
・思うように行かない日々で求心力を失ったバンドは、メンバーの入れ替わりが相次ぐ。

・悲しいが「バスター」という名前を捨てない限り、いつまでも過去のイメージから抜け出せないという結論を出す。

・バスターはオルタナティブ・レディオに転身する。

・リバプールのブレイディーズというパンク・クラブに出演。ポップバンド「バスター」としてでは決して出演出来得ぬクラブで、ティーンバンドというイメージを払拭した。

・ケヴィンの応募で、ロック色の強いコンテスト「バトル・オブ・ザ・バンド」に出場、優勝してしまう。ポップバンドの優勝は、観客や他の出場者には不満だったが、審査員をして「彼ら以外、このようなステージで演奏出来るバンドはいない」と言わしめた、折り紙付きの優勝だった。

・バスターデビュー30周年を迎え、バスター熱が再燃しているのは、インターネットを通して、過去の動画がたくさんの人の目に触れる機会が増えたからに他ならないだろう。

・ベストアルバム「ダイアリー」のアルバム・ジャケットの撮影場所は、今も存在する。先日、訪ねたが、ほとんど30年前当時のままで、感激した。

・イギリスでもベスト盤を出す予定。イギリスでは1枚しかアルバムが出なかったため、その後の曲をイギリスのファンのみんなにも聞いて欲しい。

・日本、ドイツ、イギリスでバスターを応援してくれるファンのみんなが新しく出るCDを聞いて楽しんでくれる事を願っている。




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2008年04月06日


【YouTube】Video
Buster Chapter4 Part 1 The Latter Years 1978-1982

【ユーチューブ】ビデオ
第4章・パート1 バスター その後 1978-1982

バスタードキュメンタリー 第4章 パート1
バスターその後 1978-1980(パート1)

聞き手:ジョン・カークマン
語り手:ロブ・フェンナ、ピート・リー


【本ビデオ要旨】
・所属するレコード会社とボニー・タイラーの抱える問題により、ボニーと同じマネージャーに付いていたバスター達は、しばらくの間、仕事を進める事が出来なくなってしまった。

・一度レコーディングした「想い出のあの娘」を焼き直して録音するように言われるが、彼らは、再レコーディングに意義を見出せなかった。

・その間、ベストアルバム「ダイアリー」が発売される。ベスト盤の発売は、今までやった物でもう一度利益を得ようとするような姿勢で、あまり気が進まなかった。

・バスターが目指していた音楽は、時代からそう掛け離れていなかったが、一度アイドルバンドというイメージが付いてしまったバスターという名前に苦しめられた。

・辛かったのはアイドルバンドにいたという事ではなかった。むしろ、自分の10代をポップスターとして過ごせた事に誇りを持っている。

・しかしながら、利益を追求する会社に変化、成長を阻まれる。ロブとピートは常に新しい曲を作っていたのにも関わらず、以前の曲の焼き直しを求められた。(前出「想い出のあの娘」)

・ピートやケヴィンの家でのセッションでは、次のアルバム候補となり得る「ウィッシュ・アイ・ワズ・ヤング・アゲン」「ベイビー・ユール・ネバー・ノウ」「ノー・エクスプラネーション」等いろんな曲が生まれた。

・バスター時代に、現在の活動の礎となる貴重な経験を積んだ。ボーカル、アレンジ等、2人のマネージャーとプロデューサーたちから様々なことを学んだ。

・その後「ジャックス」と名前を変え、一枚のシングルをリリース。レスのリードボーカルの素晴らしい作品となった。この曲で、皮肉にも初のBBCラジオのセッションに出演する事となった。





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2008年04月05日


【YouTube】Video
Buster Chapter3 Part2 Buster on tour 1977

【ユーチューブ】ビデオ
第3章パート2 バスター海外公演 1977

【マイスペース・バスター/ユーチューブ】ビデオ

第3章パート2 バスター海外公演 1977


【本ビデオの要旨】

・バンドはフィリピンの後、オーストラリアへ。
人気音楽番組「カウントダウン」に出演。

・その前にビデオ撮影で立ち寄ったグレート・ケッペル島で、ピートが背中に3度の火傷相当の日焼けをしてしまうが、RCA社員の奥様が看護婦さんで手当てを受け事なきを得た。

・1977年大晦日に、シドニー・オペラハウスの前で行われたイベントに出演。35万人の前で演奏をする。

・ロブはリバプールでスレイドを見に行った観客の一人でしかなかったが、数年後、バスターはドイツの音楽雑誌「ブラボー」が主催したコンサートでスレイドと共演、いい思い出となった。
ボーカルのノディ・ホルダーが、楽屋でパンツ一丁に鏡付きの山高帽を被ってトイレに行く姿を目撃した。

・ピートのもみ上げは、ノディの影響だった。

・ロブの一番のアイドルは、TRexのマーク・ボランだった。スレイドは2番目に好きで、ノディの影響でテレキャスターを購入、現在も使用している。

・ツアー終了後、イギリスに戻り数週間休みを取り、曲を書き始めるが、それらが日の目を見ることはなかった。日本、オーストラリアへも戻る話もあったが、所属事務所がレコード会社と問題を抱えたため、実現することはなかった。






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2008年04月02日


【YouTube】Video
Buster Chapter3 Part1 Buster on tour 1977

【ユーチューブ】ビデオ
第3章パート1 バスター海外公演 1977

バスター 海外公演 1977(パート1)

聞き手: ジョン・カークマン
語り手: ロブ・フェンナ、ピート・リー


【本ビデオの要旨】

・バスターは日本で大人気となり、来日時には空港にファンが押しかけ、その様子がNHK「ニュースセンター9時」のニュースとなった。

・1977年12月25日、日本武道館において昼夜2回の単独公演を行う。

・NHKのTV番組に出演し、ライブ演奏を行う。サンデーズとの共演はステージ直前に知らされ、曲のアレンジを変更しなければならなかったが見事な演奏を行い、ライブバンドとしての面目躍如だった。

・日本でゴールド・ディスクを授与されたが、ピートのズボンのチャックが下がっていたというハプニングがあった。

・日本公演の後、フィリピンに行きイメルダ・マルコス大統領夫人関連の団体向けコンサートを、マニラ・スタジアムで行う。
移動は武装警官隊の護衛付きで、単独での外出も禁止されていた。

・宿泊先のホテルの豪華さと、庶民の生活の落差に大変驚いたが、フィリピン滞在ではよく世話してもらったと感じている。




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2008年03月31日


【YouTube】Video
Buster Chapter2 Here's Buster1976

【ユーチューブ】ビデオ
第2章 バスター誕生 1976

第2章 バスター誕生 1976

聞き手:ジョン・カークマン
語り手:ロブ・フェンナ、ピート・リー


【本ビデオの要旨】
・バスターは本来ロック色の濃いサウンドを持っていたが、レコード会社は売れ筋のポップ路線を求め、ファースト・アルバムは大きく路線変更を余儀なくされる事となった。

・今まで表に出る事のなかったロック・バージョンの「恋はOK」「ウィ・ラブ・ガールズ」が4月に発売になるCDに収録されている。

・「すてきなサンデー」が発売されると、イギリスではいきなりUKチャート48位に躍り出るも、意図的にチャートから除外される憂き目に遭う。それに伴い、イギリスの権威ある音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」に出演する機会も失う事に。

・また、バスターのソノシートをBCRのファンクラブに送付する等のRCAのやり方に戸惑う事もあった。そのようなビジネスサイドの動きは、レコーディングやインタビューで多忙を極めたバスター本人達は、知る由もなかった。

・イギリスでの扱いとは反対に、日本やドイツでの人気は根強いものがあり、ドイツでは「恋はOK」がデビッド・ボウイーなどと供に、コンピレーション・アルバムに取り上げられた。

・海外での成功を受け、次々と作品を作り出して行かなければならなかった。



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2008年03月15日


【YouTube】Video
Buster Chapter1 Part 2 The Early Years 1972-1975

【ユーチューブ】ビデオ
第1章・パート2 バスター デビュー前 1972-1975

バスター デビュー前 1972-1975 (パート2)

聞き手:ジョン・カークマン
語り手:ロブ・フェンナ、ピート・リー


【本ビデオ要旨】

・ピートとレスの両親が献身的にバンドをサポート。

・ピート宅で毎回ライブ後に反省会を実施。演奏技術のみならず、ステージングも厳しく評価しあう。

・1975年暮、EP盤を出したスタッグ・レコード社長のアラン・リチャーズ氏の勧めにより「バトル・オブ・ザ・バンド」コンテストに出場、優勝。

・アラン氏が、後のバスターのプロデューサー・チームとなる、スコット&ウルフ及びデイブ・マッカイらにNAを紹介。ボーカルが弱いとのことで、6ヶ月間の改良期間を与えれる。

・その間、メンバーは独自に選曲したウィッシュボーン・アッシュ、ビートルズ、ロイ・ウッド等の曲や、後々にはプロデューサー・チームから提供された曲をレコーディングし返送することで、ボーカル強化に努める。提供された中には「すてきなサンデー」も含まれており、メンバー全員がすぐに気に入った曲だった。

・6ヶ月後、再び彼らの演奏を見にプロデューサー・チーム及びRCA(当時)のA&M担当がやってくる。ロブが直前にギターのチューニングを狂わすハプニングがあったが、見事合格。RCAと契約締結。

バスター ドキュメンタリー
第1章 パート2 <日本語字幕入り>




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2008年03月12日


【YouTube】Video
Buster Chapter1 Part1 The Early Years 1972-1975

【ユーチューブ】ビデオ
第1章・パート1 バスター デビュー前 1972-1975

バスター第1章・パート1 デビュー前 1972-1975

聞き手:ジョン・カークマン
語り手:ロブ・フェンナ、ピート・リー


【本ビデオの要旨】

・ピート13歳でケヴィンと学校のギター・クラブで知り合う。ドラマーのレスと出会い、3人で“ニュー・アトラクション(以下NA)”を結成。当初はデニスというシンガーのバックバンドとして活動を開始、後に独立。

・ロブはグリズビー公民館で他バンドの設営の手伝いをしていたが、その伝でピートの父親が連絡をとる。
 ロブ宅に3人がバンで乗りつけ、オーディションを行い、合格。1974年5月にロブが加入。

・その3ヵ月後にEPを録音。「マイ・ライフス・ノット・フォー・ユー」はピートが初めて手がけた曲。

・NAはクラブ巡業を通じて、演奏力を磨いていった。

バスター ドキュメンタリー 
第1章 パート1 <日本語字幕入り>




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