【マイスペース・バスター/ユーチューブ】ビデオ
第3章パート2 バスター海外公演 1977
【本ビデオの要旨】
・バンドはフィリピンの後、オーストラリアへ。
人気音楽番組「カウントダウン」に出演。
・その前にビデオ撮影で立ち寄ったグレート・ケッペル島で、ピートが背中に3度の火傷相当の日焼けをしてしまうが、RCA社員の奥様が看護婦さんで手当てを受け事なきを得た。
・1977年大晦日に、シドニー・オペラハウスの前で行われたイベントに出演。35万人の前で演奏をする。
・ロブはリバプールでスレイドを見に行った観客の一人でしかなかったが、数年後、バスターはドイツの音楽雑誌「ブラボー」が主催したコンサートでスレイドと共演、いい思い出となった。
ボーカルのノディ・ホルダーが、楽屋でパンツ一丁に鏡付きの山高帽を被ってトイレに行く姿を目撃した。
・ピートのもみ上げは、ノディの影響だった。
・ロブの一番のアイドルは、TRexのマーク・ボランだった。スレイドは2番目に好きで、ノディの影響でテレキャスターを購入、現在も使用している。
・ツアー終了後、イギリスに戻り数週間休みを取り、曲を書き始めるが、それらが日の目を見ることはなかった。日本、オーストラリアへも戻る話もあったが、所属事務所がレコード会社と問題を抱えたため、実現することはなかった。
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ジョン:そして君達はオーストラリアに行き、モーリー・メルドラムが司会をする、とても有名なテレビ番組「カウントダウン」に出演したんだよね?
ロブ:ああ、そうだったね。覚えている?
ピート:いいや。
ジョン:確かに君達は「カウントダウン」に出演したよ。
ロブ:僕はずっとインターネットでその動画を探しているんだけど、「カウントダウン」はイギリスの「トップ・オブ・ザ・ポップス」のようなとても大きな番組でね。モーリー・メルドラムという男性が司会の番組だった。その赤いシャツでとても有名な人でね。
ピート:あー、思い出したよ。
ロブ:彼はとてもいい人でね。一番大きなポピュラー音楽番組をやっていて、彼はまだ関連の機関にいると思うけど。インターネットでその番組の録画が、年代別に検索できるんだ。僕らが出演した1977年のビデオを探しているけど、まだ見つからないんだ。
だけど番組に出演する直前に、僕らはグレート・バリア・リーフにあるグレート・ケッペル島に、番組内で放映されるビデオの撮影に行ったんだ。
ピートはその時に起きた面白い話をしてくれると思うよ。「日光浴で、決してやってはならないこと」についてね。
ピート:決してやってはならないこと、ね。
ロブ:世界で最も暑い場所での日光浴で絶対にやってはならないこと、ね。
ピート:何があったかというと、グレート・ケッペル島はとても暑くて華氏120℃(摂氏49℃)位あったんだけど、とても美しいビーチだった。僕は他のメンバーの背中に日焼け止めを塗ってあげたんだけど、皆は僕の背中に日焼け止めを塗る前に泳ぎに行ってしまったんだ。そのために、僕は背中に3度の火傷を負う羽目になったんだよ。
ロブ:背中にこんなに大きな水ぶくれができてね。入院しなかったのが不思議なくらいだったよ。
ピート:RCAの社員の奥さんが看護婦さんでね。覚えている?
ロブ:そうだ、フランクだったけ?
ピート:フランク・ピーターズ?
ロブ:フランク・ピーターズはジャーナリストだったと思うよ。
ピート:とにかく、その奥さんが手当てをしてくれたんだ。いいかい、よく覚えておくんだ。日差しの下に出るときは、かならず日焼け止めを塗るんだよ。
ジョン:君達は、オーストラリアではショウは1回だけだったけど、とても巨大なショウだったね。シドニー・オペラハウスの階段で、35万人の前で演奏したんだよね。シドニー・フェスティバルだったけ?
ロブ:あれは、1977年の大晦日のライブだった。現在も続いているよ、大きな花火も上がってね。全豪にテレビ中継されたんだ。でも僕達、誰もその時の写真を持っていないんだ。誰かに演奏中の写真を撮ってくれるよう僕のカメラを渡しておいたんだけど、レンズのキャップが付いたままでね。
ジョン:僕はその時のピートが写った写真のこと、1枚だけ覚えているよ。大きな格子が写っているだけだった。
ロブ:僕はそのときの写真を1枚も覚えていないな。
ジョン:そのときの写真で覚えているのはそれだけだ。
ロブ:バンドとして写った写真を、僕は1枚も見たことがない。僕がボニー・タイラーの写真を撮ったのは覚えているよ。ボニーも出演していたよね。
でも僕はバスターが、シドニー・オペラハウスをバックにして写っている写真を持っていないんだ。もし誰か持っていたら、ぜひ見てみたいな。
ジョン:あれはシドニーで初めてのフェスティバルだったから、絶対に誰かが写真を持っていると思うよ。
ロブ:僕もそうだと信じているよ。誰かも、そう言ってたからね。
ピート:そうだね。
ロブ:シドニー・オペラハウスだなんて、すごく権威のあるところだからね。
ピート:本当に素晴らしいところだからね。
ジョン:一体どうやってそんな大きなコンサートに出演することになったんだい?そのほんの3年前には、君達はクロズビルのソーシャル・クラブや、サニー・バレーのホリデー・キャンプで演奏していたのに、今度はシドニー・オペラハウスの階段で35万人の観客の前だよ!これ以上は望めないよね?
ピート:シドニー・オペラハウスのコンサートについては、僕らはどれだけの観客がいるのか知らなかったんだ。とても大きな舞台で、観客席の方からライトが当たっていて、席はよく見えなかったから、どれだけ客がいるのかわからなかった。
ジョン:前から3列位までしか見えなかった?
ピート:そう、僕らどれだけ多くの観客がいるのか、分からなかったんだ。本当に驚くべき経験だったよ。
ロブ:本当に素晴らしかった。本当に一生に一度の機会だったよ。
ジョン:もし、誰かが前もって言ってくれてたら・・・
ロブ:一旦ステージに出てしまえば、客席は見えるんだ。もし事前にどれだけの観客がいるか知らされていたら、気絶していたかもしれないね。
数年前の面白い昔話といえば、リバプールにあった「スタジアム」という素晴しいコンサート会場での出来事を思い出すよ。僕は、スレイドのコンサートに行ったんだ。偉大なバンドで大好きなんだけど。僕は会場で自分のアイドルの登場を待つ、他の何千というロックファンの一人でしかなかった。ステージを見上げて、ベースのジミー・リーが僕に向かって横向きに親指を立ててさ。それはスレイドのお約束のアクションだったんだけど、僕はとてもうれしかったよ。彼はきっと皆にしていたんだろうけどね。そして一緒に行った友達の一人が、ギターのデイブ・ヒルの髪からラメをつまみ取ったりして。
その2年後、僕らはドイツのヒット・チャート入りしたんだけど、スレイドはかつてはビックだったけど衰退期に入っていて。僕らはいわば街の新入りみたいな状態だったんだ。
スレイドと同じコンサートに出演したんだけど、今でも覚えていることは楽屋を一緒に使ったことだよ。同じ楽屋にいるだなんて!2年前は、僕は何千という観客の中の一人でしかなかったのに。
僕が墓場まで持って行きたい場面は、ノディ・ホルダーがシャワーか更衣室かどこかから出てきて、パンツ一丁で銀色の鏡のついた帽子を被ってトイレに行くところを目撃してしまったことだよ。
ピート:偶然だけど、日本のファンの人たちはバスターの雑誌の写真や映像で、僕がもみ上げを伸ばしているのを見ただろう?あれは、ノディ・ホルダーの影響だったんだよ。
ロブ:そうなのかい?
ピート:そうなんだ。
ジョン:あの時代は、もみ上げが流行っていて、それがお洒落だったんだよね。
ロブ:それじゃあ、アルビン・スターダストとは関係がなかったんだ。実のところ、うらやましかったな、僕は伸ばせなかったから。
ジョン:スレイドと一緒に出演したコンサートは、ドイツの大手音楽誌「ブラボー」のものだったね。
ロブ:今でも大きい音楽誌だよ。
ジョン:そしてまた、そのショウも大きな会場だった。
ロブ: 会場はアイシュリンクだったけ?
ジョン:君達はスレイドのセットの前に機材をセットした。君達がスレイドの機材の前で、サウンドチェックしている写真を持っているよ。
ロブ:ああそうだった。スレイドが自分達の演奏を始めたら、それはもう素晴しいの一言だった。彼らは70年代を代表するロックバンドだよ。
ピート:スレイドについて僕が覚えていることは、僕らは同じアンプを使ったよね?僕らは、低音を少しだけ、ギターの高音も少しだけ、中音も少しだけって感じで調整してたのに、スレイドのローディーが直前に出てき全ての調節ボタンを最大にしたんだ!それは、とても素晴しいサウンドだった。
ロブ:ああ、彼らは最高のバンドさ。
ジョン:不思議なことに、数年前は君はスレイドを見上げていたんだよね。スレイドが君のヒーローだったの?
ロブ:Tレックスのマーク・ボランが、僕が初めて大きな影響を受けたアーティストだよ。間違いなくマーク・ボランだね。スレイドはかなり近いけど2番手だ。僕はスレイドの生音が好きさ。ボランの1977年頃までの初期のエレクトリック・ウォリアー的なスタイルがある意味好きだったけど、スレイドはどんどん強力になっていた。「ママ・ウィアー・オール・クレイジー・ナウ」とかね。数々のラウドな曲が好きだったね。僕は、フェンダー・テレキャスターをノディ・ホルダーの影響で買ったんだ。そしていまでもそのギターを使っているよ。
ジョン:君達は大成功の極東ツアーから戻り、ゴールド・ディスクも授与され、口頭ベースでまたそこに戻るという約束もされ、多くの人がそれを望んでいた。悲しいことに、それは実現しなかった。君達はイギリスに戻り、数週間の休みをとった。1977年を通して沢山活動したからね。数週間の休みを取り、曲作りを始めた。そしてそれらの曲は3rdアルバムになる可能性もあった。
ロブ:そこが、多くの人にとって良く分からない部分なんだ。ツアー後に、僕らはオーストラリアへ戻る話もされたし、日本へまた行く話もあった。ドイツへは少しだけ戻って、東西ベルリンを含むツアーをした。当時のレコード契約の状態は分からないけど、確か1978年にツアーをしたよ。しかし、ドイツと日本については、全てが静かになってしまった。何が起きているのか、分からなかったよ。どうして答えがもらえないのか、必死に理由を確かめようとしたよ。今となって分かったことだけど、所属事務所がレコード会社と問題を抱えていたんだ。詳細は分からないけどね。

